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桑野通子 Michiko Kuwano

本名/Real name
桑野 通 (くわの みち)/Michi Kuwano
生年月日/Born
大正4年1月4日/January 4, 1915
出身地/Birthplace
東京市芝区三島町(現・港区芝大門1丁目)
/Shiba, Tokyo, Japan
学歴
/Academic background
三田高等女学校(現・戸板学園中高部)
/Mita Advanced girls' school
身長/Height
158cm
愛称/Nickname
ミッチー、お通(つう)ちゃん/Mitch
没年月日/Died
昭和21年4月1日/April 1, 1946

略歴

 
昭和7年に女学校卒業後、森永製菓に入社し【スイートガール】(日本初のキャンペーンガール?)として活動ののち、赤坂溜池のダンスホール【フロリダ】のダンサーとなる。 そこで松竹蒲田の野口鶴吉にスカウトされ昭和9年11月、清水宏監督の『金環蝕』でデビューする。 旧タイプの女優が多かった松竹蒲田に、抜群のプロポーションと溌剌としたマスクを持ち合わせた、洋装が似合う近代的タイプ の女優登場で脚光を浴びた。 その魅力は他の撮影所のスター女優を含めても勝る者はいなかったという。 当時の雑誌に「洋装のよく似合う純情な近代娘」と紹介され、デビュー作『金環蝕』の評価では 「逢初(夢子)らの持ち合わせぬ感覚は躍動して、新しきものの勝利を謳歌」と評された。 その後もベストドレッサー女優として人気を博した。 女優では久原良子と仲が良く、撮影所ではいつも一緒にいたようだ。同じダンサー出身の高杉早苗とは、 フロリダに踊りに行くこともあったし、上原謙とは恋の噂もあったが、 昭和17年7月、正式な結婚をしないまま妻子ある男性(斎藤芳太郎氏・・17、8才年長で森永製菓社員、昭和53年没)との間に桑野みゆきをもうける。 その4年後の昭和21年4月1日、子宮外妊娠による出血多量が原因で亡くなった。 31才没
入院したのが大船の旧海軍病院で、産婦人科医がおらず当初妊娠が分からなかった。 終戦直後の物資・医療不足の中、はかなく散ってしまったのだ。 彼女が戦後の映画全盛期にも活躍していれば、大女優に成長していたことは間違いないだろう。

生い立ち

 
東京市芝区三島町8番地の生まれ、兄栄二がおり、後に異母妹が生まれる。 父半次郎は日本郵船の欧州・米国航路汽船のコック長をした経歴から、 西洋料理店(とんかつ屋)"喜楽軒"を経営していた。当時「喜楽軒のかつ」は結構な評判で、貸家も数件持つほどの繁盛ぶりだった。 小学校時代は近所の子にいじめらて外で遊ばなくなるような内気で控えめで泣き虫な子供だったが、動物が好きで カナリヤを飼っているにもかかわらず、増上寺境内のハトを捕まえてペットにしようともした。 小学3年生のとき、関東大震災に遭い暮らし向きは一気に悪くなり、芝公園でバラック生活を経験する。この小学校時代に親友堀越朝子と出会っている。 高等女学校に入ってからはよく勉強し成績はトップクラス。女学校時代の一番の友人はとく子さんで 卒業後関西に旅立ったとく子さんとの別れは、辛い思い出だった。 女学校卒業後は上の学校へ行けるはずもなく、すぐに働かなければならなかった。 慶応に通う兄の学費は家庭の負担であったし、少しでも給金のいい仕事をして家庭を助けたいと考えていた頃、 森永のスイートガールの求人を見つけたのだ。
森永のスイートガール  

三田の森永製菓工場の塀に張り出してあった求人広告を見て、飯田橋の職業紹介所で申し込んだ【スイートガール】の採用条件は、 「円満厳格な家庭に育ち、明朗華麗な容姿を備え、高等女学校卒以上の18〜20才の健康な女性」左から2人目がミッチー、右から2人目が御影公子 に加え「近代的感覚、肉体美・音声美を有すること」など全部で31項目の厳しい条件で、第一回応募者約600人(森永資料)の 中から5人に選ばれ、森永製菓に正社員として入社した。ちなみに【スイートガール】は昭和12年まで毎年募集(戦後、昭和27年に一時復活)され、北は北海道から南は九州、台湾の【 キャンディーストアー】や百貨店などを巡り販売促進・宣伝活動を行い、その待遇は映画スター並だった。 通子はそんな生活を二年弱送ったが、同期の御影公子は一足先に松竹の女優となっていた。
森永ご進物ニュース・上段左端      

フロリダのダンサー  

ダンサーになったきっかけは、小学校時代からの知り合いでフロリダのダンサーをしていた堀越朝子の世話であったが、 森永の斎藤氏に連れられて踊っているうちに、フロリダの方からプロにならないか?と誘いがあったという説もある。 フロリダでは「ミッチー桑野」という名で踊っており、すぐにNO.1となった。
フロリダ・ダンサー時代 男性客はダンサーと踊るに為にチケットが必要で、その売上げがトップだったのだ。 やはり堀越朝子が一番の仲良しで、男性から誘惑の多い仕事だけに彼女がしっかりガードしてくれた。 近所に住んでいたこともあり、休みになると家を往き来したり一緒に海へ行ったりしたようだ。 ルミさん、ミミさんとは、気になる男性客と誰が最初に踊れるかハンドバックを賭け、見事ミッチーが 選ばれてハンドバックをもらったという楽しい思い出もあった。ダンサーとして半年ほど経ち、そろそろ一人前に なった頃、スカウトされ松竹に入社することになる。 ミッチーが辞めたあとのフロリダは売上げが減少したそうだ。 なお、フロリダは東京市内で最も高級なダンスホールで、鹿鳴館の後身と言われていた。 昭和4年にオープンし、昭和14年閉鎖(翌年東京市内のダンスホールは禁止となる)、現在の港区赤坂二丁目にあったが、 戦後、新橋の田村町に移転オープンしたとのこと。      

映画デビュー  

当時松竹では俳優の脱退が相次ぎ、それを埋めるべく(他社から引き抜くことなく)多くの素人を入社させ育てていた。 名物スカウトマン野口鶴吉はダンスホールやデパートなどで新人発掘を行い、 松竹入社時の写真 そんな中で通子を見出した。森永製菓ドロップ主任・小西氏の紹介で、当日入ったばかりの新人ダンサー通子と踊り、 半年様子を見た後、フロリダに城戸所長を連れて行き、自分と踊る通子の首実験をした。 野口の口説きになかなか「うん」と言わなかった彼女だが、 松竹宣伝部の岡田実が通子の父の経営するレストランの常連で、彼女とも顔見知りで あったことから二人がかりで口説き落とし、映画界入りの承諾を得た。 通子も映画スターになる希望がないわけではなかった。 当時、彼女は雑誌に「自分の器量が人一倍に美しいというような自惚れは持っていませんが、 自分としてもまだ若い女性の一人です。人並みの夢は持っておりますし、 また、スターの希望もない訳ではありません。(ダンサー仲間で親友の)堀越さんに相談すると、 今が絶好のチャンスよ!と言って賛成してくれたので、決心しました。」と書いている。 通子は月収の半分を家に入れていた。 堀越朝子はその後、女優になった通子のマネージャー兼セクレタリーを果たし、約一年半の間通子を支え続けた。 身寄りのない彼女が病気で入院した時は、親身になって看病し医療費の全額を通子が払っている。 なお、野口鶴吉は城戸四郎の片腕となって松竹の基礎を築き、その隆盛に尽力した人物で、 平成15年1月24日、99才になるまで存命だった。      

ファン倶楽部  

昭和14年当時、桑野通子後援会「紅椿」というファン倶楽部が存在していたようである。 事務所は新潟県柏崎町駅通、小竹天瑞堂内となっています。      

インタビュー 

【スタア】昭和13年2月下旬号 
好きな色・・・・・・グレイ、赤
好きな食べ物・・・・・・支那料理(特にソンマイというとうもろこしのスープ)、果物
好きなスポーツ・・・・・・スキー・・三年やっても十回に一回ころばずに止まれる程度、水泳(遊佐正憲のファン
好きな娯楽・・・・・・映画、俳優ならポアイエ(シャルル・ボワイエ)とポウエル(ウィリアム・パウエル)、小杉勇
          ムーランルージュ
お召し物・・・・・・和服も好きですが持っていません。黄八丈、黒地に銀など地味好み
          洋服ならスポーティーなものからフォーマルなものまで何でも好き
性質・・・・・・お話にならないほど気が小さい、見かけは何ですか、ひどく凄いように云われてますが、
          実はいたって小心者なんですの、それでいて変なときに大胆になりますわ
愛読雑誌・・・・・・ヴォーグ、婦人雑誌(送ってもらえる)
好きな花・・・・・・薔薇(白や赤)
健康・・・・・・丈夫、時々目や歯を悪くしますが、大病などは致しません
映画の役・・・・・・メソメソする役はイヤ、空々しくてその場が持ちませんわ
やりたい役・・・・・・『巴里で逢った男』のコルベールみたいな役

主な出演作(現存作品) 

 
金環蝕 (昭和9年)・・デビュー作、銀座の森永キャンディーストアーで買物するシーンは監督の粋な計らいか
有りがたうさん (昭和11年)・・・上原や髭のおじさんとの絡みがいい
男性対女性 (昭和11年)・・・作業着を着たレヴュー照明係、仕事を終えた後のレインコート姿は格好良すぎ
淑女は何を忘れたか (昭和12年)・・・ミッチーの魅力あふれる作品
恋も忘れて (昭和12年)・・・主演作(現存作品が少ない)、ダンスホールで一人踊る姿は必見!
水郷情歌 湖上の霊魂 (昭和12年)・・主演作、恋人の帰郷について行くレヴューガール、カフェ女給姿も有
螢の光 (昭和13年)・・・神々しく、やさしい先生役
家庭日記 (昭和13年)・・・ちょっと蓮っ葉、でも子供思いの母親の姿で登場
向日葵娘 (昭和14年)・・・主演作、管理人が最もお気に入りの作品、スケート姿が目から離れません
兄とその妹 (昭和14年)・・・派手な洋服のキャリアウーマン姿で通勤、箱根のハイキングルックとは対照的
愛染かつら 総集編 (昭和13〜14年)・・・アメリカ帰りの留学生役、川奈でのゴルフは金環蝕の頃より上達
新女性問答 (昭和14年)・・・学生服姿も良いし、法曹服で延々と私情あふれる弁論もミッチーらしいかも
戸田家の兄妹 (昭和16年)・・・登場シーンは少いが、しっとりとした大人の雰囲気で美しい
   (昭和16年)・・・北アルプス八方尾根に登山します
        
        
恋も忘れて
ミッチーの評判・回想・追悼など ミッチーを知る人から 

■南部圭之助 
残り一カットを残して仕事場で倒れた。 春未だ浅き四月一日、日本映画界は愛すべき一つの人格を失った。 私は彼女と余りつき合いがなかった。 それにも拘らず彼女の突然の死をきいた時、 何故か強い感傷におそわれた。 それはおそらく人づてにきく、彼女の無類の人のよさと その人のよさ故に不運であった半生を、いまその不運の 最悪の終えんにあって、思わず強烈回想し、 人間としての限りない、ことばに出ない<くやしみ>が 胸いっぱいに憤りつづけたのであろう。 晩年の彼女は、その芸の円熟と三十一という若さにも拘らず 既に傍役におちていた。どうしてこんなになったのであらう。 近代的な容姿と漸く映画のリズムをマスタした立派な芸術をもった彼女は、 一面日本映画界にとって得がたい至宝でなければならなかったはずであったが、 誰しもそれを認めない。思えば大船撮影所は大馬鹿野郎であった。 思えば日本映画界はなんという盲目のより集まりであるのだらう。 桑野通子の死を悼むと同時に彼らは映画芸術の文盲を深く謝して、 かくの如き不運なる芸術家を二度と日本映画に生ぜしめない事を誓うべきである。
【スタア】昭和21年第3号(1946)「桑野通子を悼む」

■小津安二郎監督
可哀想なことをしました。丁度私は帰って来て、撮影所へ顔を出した時に遭ったのですが、それが最後でした。 丁度芸も円熟して来た様だし、之からなのです。殊に私は、三十四−五才の立ての女優が是非欲しいと思っていた時なので、 ひどく落胆しました。気のいい女優でね、きのうも池忠(池田忠雄)と話したのだが、どんなアカチャラカ本(アトラクションなどに使う速成の本) でも、作者が汗顔するほど真面目にやってくれる人で、めずらしいくらいだった。
【スタア】昭和21年第4号(1946)

■田中絹代
桑野さんは、昭和九年に大船(*正しくは蒲田)に入所されました。その頃、桑野さんと一緒に華々しく 登場した人は高杉早苗さん、三宅邦子さん、御影公子さん、忍節子さんなどで、半年ほどおくれて水戸光子さんも 入られました。同期の人たちが殆どみんな映画界をしりぞいたのに、桑野さんは、病で倒れる日まで、十余年間、孜々として芸に 献身されたことには、本当に頭が下がります。私が桑野さんで一番関心したことは、入所の当時からおなくなりになるまで、 終始一貫、ずっと同じ態度でおられたことです。スタアになり始めは、悪くすると自惚れが出、得意になるものですが、 桑野さんにはそんなところがまるでありませんでした。スクリーンから受けた感じでは最も近代的な女性のタイプ であり、役の上からみると、気ままにみえるところもありますが、実際はしとやかなおとなしい人で、 しずかにおつき合いの出来る人でした。撮影所のみなさんから愛されていましたが、 私も非常に好きな人でした。しんみり話の出来る人-----そんな人は割合撮影所にはいないもの ですが、桑野さんは、しんみり話の出来る人でした。桑野さんはそういう中で心から話し合える人でした。 桑野さんの初めて出演した映画は、「金環蝕」で、それ以来、大船作品の大半のものに主演として出演されています。 桑野さんを今日まで育て上げた方は、清水宏監督でしょう。桑野さんの代表作には「彼と彼女と少年達」「兄とその妹」「戸田家の兄妹」などがあります。 いま静かに思い出してみますとこんどのお仕事(*女性の勝利)のときほど、桑野さんにしたしみを感じたことはありません。 私は朝顔を合わせると、必ず「お嬢さんどうでした?」とたずねます。五つ(*数え年)の可愛いお嬢さんのことです。 『何時も、行ってらっしゃいと朗らかにおくってくれるのに、今日はなんだか淋しそうでしたわ-----』と 、倒れた日の朝、桑野さんはかなしそうなお顔をしておられました。いま思い出すと、あのときの桑野さんには 、なにか、悲しいかげがあったようです。妊娠という普通でないからだで、倒れるまで仕事をつづけられたことは、 大変苦しかったと思われます。そんな苦しみを少しも顔に出しませんでした。 いまは静かに桑野さんのご冥福をお祈りするばかりです。
【映画ファン】昭和21年7月号(1946)「愛された桑野さん」 

■吉村公三郎監督
そのうち彼女(*師匠の愛人)のほうの家庭の事情で、師匠が彼女一家の面倒を見なければならなくなった ようで、芝に一軒借りて移り住んだ。その家へ師匠に何か連絡することがあると私が出かけて行った。 その隣家に桑野通子さんが住んでいた。両親がトンカツ屋兼ミルクホールのような店を出している その二階が彼女の部屋だった。 桑野さんとは以前から仕事で付き合ったり、若い俳優連中がやっている劇団に彼女も関係していて、 その演出なんか手伝っていたから割合いに親しかったし、とくに小津監督の「淑女は何を忘れたか」で 彼女の関西べんの指導をさせられたりしていた。師匠の愛人の家へ行った帰りに桑野さんの部屋へ立ち寄った。 その部屋は若い女優の部屋らしく華やいでいた。その頃桑野さんは小津監督から求愛されて いたように思う。彼女がふともらした口のはしで察しられた。
吉村公三郎著【あの人この人】昭和42年(1967)「わが師匠島津保次郎」
*『淑女は何を忘れたか』撮影後の昭和12年頃のこと

■上原謙
本当にいい女優さんで、日本映画界のために惜しいものと考えています。 現在は彼女のようなタイプの女優さんが居ないので尚さらです。桑野さんとはアイアイ(相合い)コンビ として宣伝され、六本つづけて主演ものを撮ったものです。
【近代映画】昭和23年6月号(1948)「上原謙さんがお答えします」

ダンサー出身であることから、桑野通子さんは自由奔放な女性だと 想像されるとすれば、それはまったくの誤解である。 無口でおとなしく、これほど純真な女性はいなかった。 松竹では私より一年先輩だが、とてもやさしい人で、私に 「ああしてください、こうしてください」などと強い口調で言ったことは 一度もなかった、子役時代から松竹に入社して、いばっていた小桜葉子(*上原夫人) とは対照的な存在で、いつも隅にじっとしているような内気なはにかみ屋だった。
上原謙著【がんばってます】昭和59年(1984)
*上原謙は学生時代、一度だけフロリダでお客としてミッチーと踊ったことがあるという

■高杉早苗
我々、よく集まって「ねぇ、撮影所の中で誰が一番すてき?」なんてやるの。 吉川(満子)さん、飯田(蝶子)さん、それに三宅さん、高峰さん、 みんな集まって。桑野さんはそういう仲間に入ってなかった。 そうすると、みんな「小津さん」(笑)。桑野通子さんは、どこか大人って感じで、孤独が似合ってました。 女から見ても神秘的というのか、魅力的。<桑野さんとは、初期の頃はライバルといいますか、いつも比較されてたとところがありますね。> でも、役柄が全然違いますからね。桑野さんの持ち味、私、好きでした。自分にはないものを持ってらして。 マーナ・ロイみたいな人だなと思ってました。それは、すってきな体でしたよ。裸見たわけじゃないですけど、脚がきれいで
【キネマ旬報】1985年(昭和60年)7月上旬号
个インタビュー日本のスター第32回 高杉早苗の巻"ラッキー・セブン"から大女優に(前編)」
水野晴郎著【水野晴郎と銀幕の花々】平成8年(1996)


■高峰三枝子
桑野通子さんも先輩ですが、やさしい人柄の方でした。 ある日のこと私のそばに桑野通子さんの鏡台が置いてあったので、 私は断りもしないで使っていたのです。そこへお化粧を直しにひょっこり入ってこられたのです。 「ごめんなさい。使わせていただいています」 と私が恐縮しておわびをすると、 「いいえいいの、どうぞそのまま使ってください」 桑野さんはにこにこして、さりげなく別の部屋へ行かれました。今でもそのときの桑野さん の美しい笑顔を思い出します。先輩も後輩も仲がよくて、誰かと誰かが感情的に対立するなんて噂も聞きませんでした。 世の中がせち辛くなかったせいか、映画界が盛況だったせいか、人柄のいい方ばかりに恵まれて いました。そんな時代に育った私は幸せだと思います。
高峰三枝子著【人生は花いろ女いろ わたしの銀幕女優50年】昭和61年(1986)

■山本若菜
お好みは松尾食堂名物風流茶漬け、この方は人間的にすぐれた方で、一番感じの良い方
山本若菜著【大船撮影所前松尾食堂】昭和61年(1986)

■大庭秀雄監督
蒲田でびっくりしたのは、女優陣の中に赤坂フロリダのダンサーだった人がいるんですよね。 学生時代はダンスホールに行っても、お金がないから、見学するだけ。 ダンスすることはできなかったんですけど、見学していて目立つダンサーがいて、狙っていましたよ。 その人が、桑野通子。何となく運命的なものを感じた(笑)
【ノーサイド・キネマの美女】平成7年(1995)

ミッチーへの想い ミッチーファンのメッセージ 

■田辺聖子
実は私、桑野通子さんが忘れがたいのである。といっても、ではどの映画を、といわれても記憶にないのだ。 桑野は私の幼女時代、昭和十年代のスターだった。私は誰かに連れられてたしかに映画も観ているが、 それよりどうも私の記憶は、母か叔母たちの取っていた婦人雑誌、叔父たちの愛読する映画雑誌によって、 桑野通子、愛称ミッチーに親しんでいたらしいのだ。この人の写真は、半身も全身もみな美しかった。 日本人離れしたプロポーションのよさ、<洋装>(そんな言葉があったころ)の恰好よさ、しぐさの垢ぬけたところ、 (写真のポーズが洗練されていた)―――それに対照して、面立ちは日本の下町ムスメの庶民的なところがあって、 このアンバランスが魅力だった。そのころ高杉早苗、高峰三枝子がミッチーにならんで輝く三大スターだったが、 私は非の打ちどころのないというような、上品な美貌の高峰さんや、すらっとして清楚な高杉さんも好きではあるものの、少女ごころに、 (ミッチーが、ハイカラなくせに根はあったかそうでエエしィ・・・)と思っていた。 私の生家は写真館だったので技師見習いの若い人がたくさんいたが、その青年たちは(叔父たちも含め、) みなミッチーファンであった。 あるいは私は、彼らの話に感化されて、そう思いこんだのかもしれないが。 のびのびとみごとな四肢に、ちょっといたずらっぽい表情。―――都会の、それも下町の庶民のすこやかなモラルや、 ゆたかな情感をもちながら、新時代のセンスもぬかりなくそなえ、そのモダンっぷりで男性を悩殺したミッチー。 <都会のワーキングウーマンを初めていきいきと演じた女優、>などと現代でも評価は高いが、 昭和二十一年(1946年)、三十一歳のは夭折は惜しい。遺児が桑野みゆきさん。
田辺聖子著【セピア色の映画館】平成11年(1999)

■遠藤周作
当時、もう一人、明けても暮れても思いつめていたのは桑野通子だった。 そのころは松竹大船の全盛時代で、高峰三枝子、高杉早苗、上原謙、佐野周二、 佐分利信などのスターがすでにいたが、そのなかへ森永のスイート・ガール から彗星のようにあらわれたのが桑野だった。 栗島すみ子や田中絹代のような、オバサンくさい女優から比べると、ハツラツと した近代美あふれる桑野は断然光っていた。 私はブロマイドを買いあさり、映画雑誌にのっていた彼女の写真を一枚残らず切り取った。 ブロマイドは当時、一枚一銭か二銭だった。 古い新聞紙や雑誌などで作った紙の袋の中に一枚々入っていて駄菓子屋の店先などに 吊してあった。 友人たちはそれぞれおたがいの好きなブロマイドをよく交換していたが、 桑野とアラカンだけは絶対に、交換に応じなかった。 桑野にもファン・レターを送りつづけたが、これもアラカン同様、返事はこなかった。 しかし私のなかには、しだいに空想がひろがってきて、 八歳年上の彼女が自分には欠けがえのない人間になってきた。 私は彼女を主人公にした小説を書いたことさえあった。 彼女が少年の私を好きになり、愛を告白する、という内容だったことを憶えている。 いまからみれば冷汗三斗の思いがするが、それほど真剣だった。
【ブロマイド昭和史】(わがあこがれのスター)昭和57年(1982)

ミッチーと上原謙 桑野通子への慕情 

仲間うちでは、私が桑野通子さんと結婚するかもしれないと思われていた。 私は入社早々撮った九本の映画のうち六本を彼女と共演しているし、 私も彼女が嫌いではなかった。心の底では、しばしば桑野さんといっしょになっても いいかなという気持ちが働いていたことも事実である。 <中略> 松竹蒲田に入社したころ、私は撮影が忙しいこともあって、城戸四郎さんの親戚が経営する 「大森ホテル」の隣にあるアバートで暮らしていた。そこに人目を忍んで、桑野さんが二度ば かり訪ねてくれたことがある。外でお茶を飲んだりすれば人目につきすぎる。そこで私のアバ ートの部屋でお茶を飲もうということになったのである。 私たちは自然のなりゆきで接吻を交わした。彼女が私に好意をもっていることは、すぐにわ かった。私たちは当然そこから、いっそう深く結びつく段階に移行するはずだった。ところが 彼女はためらったあげく、「私はだめなのよ」と寂しそうに言った。 二回ばかりの密会で、同じことが二回続いた。「私はだめなのよ」といわれて、 それ以上、彼女に結びつきを強いようとは思わなかった。さらに踏みこんで求めていれば、 あるいは彼女は応えてくれたかもしれない。私は怒っていなかった。彼女を包む苦悩と悲しみの色が ありありとみえたからである。私にもし罪があったとすれば、彼女の苦悩にあふれた拒否の背景に手を伸ばし、 それをやさしく包んでやろうとはしなかったことだろう。 私は彼女から理由を聞きだすこともなく、ただ「さよなら」のことばを告げただげだった。 このとき、私がもう一歩、彼女の心に真剣に踏みこんでいたら、私たちはひょっとしたら 結ばれたかもしれない。もしそうなったら、私と小桜葉子との結婚はありえなかったはずである。 私は運命論者ではないけれども、人間はそれぞれあまりにも重く悲しい運命を背負いこんでいる。 その運命をどこかで投げ捨て、新しい生き方を求める軌道に乗り移る決意をしないかぎり、 運命はいつも桎梏となって人間におおいかぶさるのである。 このとき、運命の転轍機はおそらく目の前にあった。しかし、桑野さんも私も、この転轍機 に手をかける勇気がなかったのである。
上原謙著【がんばってます】昭和59年(1984)





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永遠の桑野通子
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